昭和五十年十一月五日 朝の御理解
御理解第二十二節 「天地金乃神と言えば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
十分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出さなければならない。神様の限りなくおかげを下さる、そのおかげを受ける受けものというものが、御神徳をもっておかげの受けものとしなければ、十分のおかげは受けられない、限りないおかげにはつながらない。
限りないおかげを頂くために、どうでも十分の徳を受けなければならない。十分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出さねばならない。それだけの話ですけれどもね。神様はもう、限りなくお恵みを下さってあるけどね、「受け物が悪いからおかげにならん」と仰ってある、ね。
なら、その受けものは十分の徳を受けて、その御神徳を以ておかげの受けものとするならば、これは限りない無尽蔵のおかげに恵まれることが出来る。どういう信心をさせて頂いたら、御神徳を受けることが出来るかと。
まあ、具体的に申しますと、昨日、私はまだ読んでありませんけど、教務所から沢山文書を送って来とる中に、こういうような葉書が入っておりました。いわゆるアンケートです。いろいろのことの中に一つ宛答えてくれという中に、「教会上での布教には何が一番必要と思いますか、一つだけ書いて下さい」と。
布教上ということですから、問題は、人が助かるということ、ね。人が集まるということ。そしてその人達が助かるということに一番欠けておるものは何か。まあ、言うならば、教会・教会長・取次をする先生達のお徳が欠けとるというよりほかはないですね。只、お話が上手であるとか、宣伝がうまいとかといったようなことでよし集まったとしても、それはすぐに元に戻ってしまうのです。
ある教会の先生が、少年少女会を作りたい。そこで、子供達に宣伝をして、お参りをして来たなら、雑記帳とか鉛筆とかをやる。ところが、本当に沢山集まったそうです。だから、大分、少年少女会、少年少女会の体質も出来たから、それを配るとを止めた。ところが、ストーッと皆止めてしもうた。雑記帳やら鉛筆やら、いろいろもらうから、日曜たんびに集まって来よった。けれども、それをやらんようになったら集まって来んようになったというのです。
言わば方法はどういう良い方法を取ってもね、やはり助からなければ集まって来ん。少年少女会なら少年少女会でも子供心にでもです、信心を目指す心。何か貰うから来るというのでなくて、そうではいけないことがわかる。
一番必要なのは、教会自体に私は御神徳が欠けとるということ。先生方に御神徳がないから、子供達が集まらんのだと。一番必要なのは、御神徳を頂くためにはどうしたらよいかということを願う教会であり、それを願う先生であらねばならないということ。それをも少し、御神徳という、いかにも大ざっぱですから、どういうことになるかというと、一番私は欠けておるのは、先生方の言うなら心が小さいからだと、心が小さいということ。
それをまちっと具体的に言うと、辛抱力がないからだということ。一つ、ですから、今申しますように、御神徳が一番欠けておるように思う。それではわからんから、ならあんまり腹が小さい、それでもまた、あんまりだから辛抱力が欠けておるからだと。まあ、一番欠けておるものは、辛抱力じゃないかということになるのです。辛抱力がありますとね、堪えられる、こたえられる、ね。神様を信ずる力がないから、辛抱出来んのです。
私はそのことを昨日は、神愛会で、先生方には、皆集まられましたから、先生方のいろんな話も聞かせてもらった。今、来年から新な運動が新発足する。そのいろんな前準備的な運動が起こっておる。どういう動向があるか、特に宮崎先生なんかはその委員ですから、聞かせて頂いた。
やはりどこの教会でもこういう運動が起こって、本当にその運動が必要だということを皆が感じ出した。そして、なら、どういうところを拠点に、教会に恐らくどこにも一枚宛行っているでしょうから、それにどういう答えを書くかと、どういう返事をするかと。そんなことを今朝、朝の御祈念に思わせて頂いとりましたらね。
松の字ですけれども、松の木の木扁が小さい、小さい木扁を頂くのです。そしてハはこれは当たり前ですけれども、口が大きい、 【 】なね、木扁にハを書いて口の字を書いたのが【 】の字です。口の字はこんなに大きい、わかるでしょう、すぐ。どういう意味か。木は心というから、言うなら、心は小さいということ、そして口だけが大きいというのです。私もこれを頂いてから本当にその通りだと思いました。
昨日も、富永先生が話しとられましたが、どこの先生でも、もう自分は知っとる、わかっとる、もう偉いと思うちゃると言うのです。どの先生にお会いしてもです、それでもう、口だけはもう素晴らしいことを言わっしゃると言うのです、ね。
けれども、なら信者は助からない、信者は集まらないと言うのです。ということです。【 】というとは、これは信心ということでしょう。ところが木は小さい、そして口は大きいと。これは松の字一字でそういうわけがあること皆さんわかるでしょう。
だからこれは、決して先生方だけのことではない。お互いの場合であっても同じだということです。例えば今日の二十二節をね、 「受けものが悪ければおかげが漏る」と仰るから、受けものが良かれば良いおかげ。受けものが良かれば大きなおかげということになるのです。
問題はおかげを頂きたいならば、先ず受けものを作らなければいけない。どうでも大きなおかげを受けたいならです、この木の方を、心の方を大きくしなければいけない。口だけが大きかったっちゃ出来ん。いくら、言わば、口だけ大きなことを言うてもです、これでは助かりようがない。
そこで私は、何と言うても、先ず心を大きくする運動とね、先ず心を大きく頂かして貰う稽古を本気でしなければならない。それにはやはり辛抱力が大事だということです。どんな問題があっても、只、「大きゅうなんなさい、大きゅうなんなさい、と私は言うです。最近。言ったっちゃつまらん、大きゅうならなければ。
これはね、生まれつき心の大きい人、小さい人はあります。それは役に立たんです。どんなに心の大きい人でも、大して信心では役に立たんです。返って危険です。けれども神様を信ずるから、心が豊かに大きゅうなるというのでなからねばいけんのです。信ずるから黙っておれるのです。
ところが、初めから神様を信じはきらんけれどもです、とにかく親先生が、「黙って治めよ、黙って治めよ」「大きゅうなれ、大きゅうなれ」と言われるから、ここは黙って一心に、「金光様、親先生」とお縋りさせて頂いて、言わんで済む、そういうことは気にならんで済むことのおかげを頂いて行くことに精進をすることの為に、やはり辛抱力が必要であります。
そうせにゃおられん、もう言わにゃおられん、これではいつまで経っても、心が大きくなりません。「臭いものを食べれ」と言われれば、それこそにんにくを食べておる時だと思うて辛抱する。苦い思いをする時には、ああ今こそ、心の胃腸が健全になるために千振でも頂いておる時と思うて辛抱せよと、いつも私は言っておるのです。そういう私は信心をしている間に、心が大きくなって、ああ言わんで良かった、せんでよかった、ということになって、体験が段々積んで参りますから心が大きくなってくる。
いよいよ大変な、例えばどういう大きな問題であってもです、そういう時に、言わばままよという心で、その問題に取り組ませて頂くことになる。神様を信じるから、ままよということになる。もう仕様はなか、もうここまで来たから、どうなっとなろうというような投げやりなものではなくて、神様を信ずる、親先生のお取次を信ずるから、親先生の言われる通りに、右なら右、左なら左に腹を決める。いわゆるままよという心になる。
そのままよという心になるところからです、段々十分の徳が身についてくる。その徳を受けものとしなければ、神様が下さっておるところの、限りなく下さってあるおかげを頂き止めることが出来ないということになります。
だから皆さん、どうでも心の大きくなる稽古をしなければいけません。ちょっとしたことが腹が立つ、ちょっとしたことが心配になる、すぐ顔色が変わる。もう本当に神様を信じていないということも、もう本当にいかにも神様、神様と言いよるけれども、神様の働きというものを信じていない。いつまで経っても土壷にまはり、だから同じところをぐるぐる廻っとかなければならない。だから信心とは心が大きくなる稽古というても良いです。
今どんなに金光教の教団全体がです、そういう新しい御取次成就信心生活というその運動の内容というものがです、社会に向けての布教、人が助かることのための運動ということが、新発足するわけで、どういう例えば手だてを取ってもです、肝心要の神様を信ずる力がない、心が小さい。もう絶対いみりはせんでしょうね。
まあ、今のようなことでは絶対いみらんでしょうね。いくらばたばたしたっちゃ、誰でもやっぱり助かりたい。誰でも教会に活気が出ることを願っとる先生方ばかりですから。一時はね、こう皆がかけ声をそろえてから、「ヤア」と言うような運動でも起こしたらこう何か、まあ、がやがや言うようになるかも知れませんけれども、絶対長続きせんです。
それこそ、少年少女会に鉛筆やら雑記帳をやってから引きつけようと、そういった意味合いの運動であったりしたならです、絶対その時は集まるかも知れんけれども、長続きはせんです。何というてもです、大きなおかげの受けものを、教会、教会長先生がそれを頂かなければ。
それにはやはり御神徳を受けなければ、御神徳を受けるためには、やはりままよという心を出さなければ。ままよとは神様を信じておるから、たったこれくらいのことが腹が立つ、たったこれくらいのことが心配になる。たったこれくらいで焦々する、顔色が変わる。それで自分自身を見極めて、これではならじという心を起こさしてもらうことなんだ。先ず一心発起をそこに、焦点を置かなければならない。
昨日ある方が、息子が言うことを聞かんというお届けがあった。ちっとばかり、まあ黙っとくばかりじゃいかんから言わにゃいけん。だから、「どういう風に言うたら良いか」というようなお願いやらお伺いがあった。
そしたら、小さい締太鼓というのがあるでしょう。三味線太鼓で賑わう時の、あの太鼓です。締めの太鼓がね、締め上げてはあるけれども、畳の上にね、ぺたっと寝せちゃるところを頂いた。これを叩いても絶対よか音は出らんです。畳の上にこれはひっ付いとるから。
だから、これをこうやって起こすと、トコトントン、トコトントンとよい音色がでるのです。そしたら神様から後にね、小さい岩ですね、石ですね。石を、後ろに立ててある石にこうやって、なんかけて打ちよるところ、そしたら良い音色が出てくるといったようなところを頂いたです。
だから石ということは心でしょうね。本人がその心にならなきゃね、いくら叩いたっちゃよか音色は出らんということ。だからね、願うことをしなければならない。ためには親自身が、そこにやはり一心発起をしなければいけないということ。
これはもう一事が万事です。子供だけのことじゃなか。その気がないものをいくら叩いたって、打ったって、それで良い音色が出るはずはない、本人の心の上に、お繰り合わせを先ず願うことが先なんだ。
今日は一つ、私が今朝頂いた松の字、ね。自分の心に一つしっかり頂いて下さい。ああ、自分の心こそ気が小まい。そして口だけは大きいというようなことではね、これは本当のおかげにはならない。心は小さい、心は大きいではいけない。
大きなおかげを頂くためには、先ずは心を大きくしなければいけない。先ず心、気を大きくしなければならない。その木につり合うた、言うならば、口を付けさせて頂いて、話を聞いて助かる道というてもです、その話をする人がです、話だけは、立派な話だけでは助からないということ。話をする人の、その話をする人の心が豊かで大きいというでなからなければ松の木にはならん。
いよいよ一つ心の大きゅうなる稽古をしなければいけませんよ。その大きくして行くためのいろんな工夫をしなければいけませんよ。そしてそれが、段々確信づけられて来るためには、黙って生神金光大神にお縋りすると、親先生の御取次を頂いて、黙ってそこのところをお願いして行くという内に、体験も段々出来てくる。
成程そういうような繰り返しをさせて頂きながら、心が大きくなって行く。それにはだから皆さん、先ず基礎になる辛抱力というものを作らなければいけません。お参りでも何でもそうです、一ヶ月間お参りしようと思うたっちゃ、暑さ寒さで、途中で止んでしまう、ね。
そりゃ、眠かったっちゃ辛抱せにゃ、きつかったっちゃそこは辛抱しぬかにゃ、先ずこの辛抱力をつくることが先ず第一だと思う。でないと、辛抱力がないとです、言うちゃならんと思いながらもです、とうとう言うてしもうた。しちゃならんことでもチャンとしてしもうたということになるのです。
それでは繰り返し心は大きくならん、いかにもそれはどんなに尤もなことを言うて聞かせて、言っておってもです、それは大きい口にしかならんのです。心が大きゅうて、口も大きいということにならなければおかげにならんです。
「受けものが悪ければおかげが漏る」と仰る。そのおかげの受けものは、神徳を以ての受けものが最高である。だから、その神徳を受けることのためにです、ままよという心を出して、問題の全て、何事によらず、ここは一口言うときたいと思うことでも、言わんで神様に縋って行くと言うような行き方から、心が大きゅうなる。大きゅうなれば、おかげは勿論大きいとなって来る。その上に、神徳が頂けて来る。完璧なおかげを受けることが出来てくる。
今日霊神様の前で、甘木の初代の霊様に、甘木のあの御比礼というものはどういうところにあったんだろうか、天地の御恩徳を誰よりもわかられ、天地の御恩を誰よりもわかられて、その恩に報いられたということに違いありませんですね、甘木の信心は。
そしたら、あのゴルフをしよる、もうゴルフの穴があるでしょう。ほんなそばに玉があるとです。それを実に丁重に丁重にスっとこうやって入れるところを頂いた。もうそばじゃから入るというようなザっとした打ち方はしない。大きく振り上げて打つということよりも、甘木の信心は小さいことに小さいことに本気で念を入れられたということです。
だから枯れ葉一枚だって、枯れ枝一本だって、お粗末には出来なさらなかった訳です。もう小さいことにです。私共の場合は目が粗すぎる。だからそこからおかげが漏るということになる。甘木の先生の場合は、ここはもう絶対間違いはないといったっちゃ、本当にもう丁重になさっておられたことになるのです。
天地の大恩がわかり、御恩徳をわからして貰うてという意味での第一人者と思うです。けれどもです、わかっただけじゃない、わかればわかる程、なら枯れ葉枯れ枝一本一枚でもお粗末にお出来になさらなかったという、その慎重さが水も漏らさぬ受けものをつくって、ああいう大変なおかげになって表れておるのです。
だから心を大きくするということはね、又心を小さく使うということにも通用するのです。言うならば、神様に向ける神経は小さい、一般の方に向かっては、人間関係の場合なんかはです、それは目にもつきましょう。ね、心を小さく使うなら、目に余ることもありましょう、けどそこんところを、これをもって大きくならせて頂くんだという気持ちで接して、大きく小さく使うて行く。
そこから私はおかげを受けられると思うです。御神徳を受けられると思うです。御神徳を受けものにという、それには先ず心を大きく持つという、そしてこと神様事に対するというか、それこそ枯れ葉、枯れ枝一本でもお粗末にしないというような神経を使うて行くという、その両面が出来て行くなら、必ずお神徳を受けて行くでしょう。御神徳に限りないおかげを、限りないおかげを受けていけるのです。
今月は、そこんところを一つ、繰り返し申しましたが、皆さんの信心の上でも、ここの辺はやっぱりギリギリここんところに焦点を置く以外にないようですよ。信心の稽古というのは、ね、そういう意味で、成り行きを大事にするとか、尊ぶとかいうことも、そのだから内容なんですね。
そして頂いた、今日の木扁の小さい松の字が、一つ覚えといて下さい。今の教団では、ここんところが一番欠けておるということが、今のお道の信奉者はそこが一番、口だけは大きいばってん、心が小さいということをです。これではおかげが大きくならんはずだということをです、一つ肝に銘じて、ここんところを頂いて行かねばいけんと思うですね。どうぞ